日本の印章の歴史
金印
天皇に木製の印を献上したという史実が「日本書紀」に記されています。祭礼に用いた神具であっと推測されており、これが日本の文献にはじめて登場する印章です。また、現存する最古の印章は国宝に指定されている「漢委奴国王」と刻まれた金印で、漢の光武帝が倭の国王に贈ったものです。このように日本の印章の歴史は千数百年前までさかのぼることができますが、本格的な印章制度がはじまったのは、大化の改新で二官八省制が定められ、大宝律令と共に印章の制度が制定された時からです。天皇の内印、太政官の外印、その他の用いる諸司印などの官印が政府によって鋳造され、公文書に捺されるようになりました。また、地方では官印に準ずる印として使われた寺社印も見ることができます。印材はすべて銅印です。官印の捺された公文書は現在も正倉院などに数多く残っています。
花押
平安時代に入ると私印が用いられるようになります。これは高位の貴族だけに許された印章で、書類だけでなく蔵書などにも捺されました。さらに、平安時代の後期になると花押(かおう)が登場します。文字通り「花のように美しい印」であり、独自性が際立っていたこともあって後鳥羽上皇をはじめとする天皇たちが公文書にもこれを用いるようになります。花押は書判(かきはん)の別名があるように判とサインの双方の役割を担っていました。このような流れは鎌倉時代にも受け継がれていきます。武家文書の大半が書状に花押が捺されるようになります。これは平安時代の前期まで受け継がれてきた印章制度が揺らぎ、藤原氏をはじめとする武家たちによる新たな印章の時代がはじまる象徴的な現象でもありました。また、僧侶や文人の間では落款印が流行していきます。
戦国時代
戦国時代になると天下統一を夢見る武将たちは、花押ではなく、それぞれ独自の個性にみちた印章を用いるようになります。その鎧兜や旗印などと同じく、自ら用いる印章にも権威を強く押し出そうとしたのです。たとえば、武田家は「龍の印」、上杉家は「獅子の印」、北条家は「虎の印」といった具合です。この他にもローマ字を使った印章として黒田長政の「Curo NGMS」などが名高く、キリシタン大名であった大友宗麟はイエズス会の記号である「IHS」と洗礼名「FRCO」を組み合わせた印章を刻んでいます。戦乱の炎の中を疾風のように駆け抜けた織田信長の「天下布武」の印章も有名です。美濃稲葉山城を攻略した直後につくられたもので、天下統一への悲願が込められた印章です。ちなみに、豊臣秀吉の印章は直径4cm程度の小さな円形印で、今日でも判読不可能な文字が彫られています。彼にだけにわかる深き想いが込められた印章だったのかもれません。
江戸時代
徳川家康の印章の特徴は歴代の印章に儒教に関わる文字を採っている点です。最初の印章は「福徳」と刻まれていました。やがて、自身の名前が入った印章を使うようになっていきます。ちなみに、公的な貿易船にもおなじように自分の名前の入った「朱印状」を与えています。これを携えた貿易船が「朱印船」です。戦乱を経て泰平の世が訪れると、行政が細やかに整備され、商業が発達するにつれて、印章は庶民にまで普及していきます。証文に用いられる印章は当時から実印と呼ばれ、名主が農民たちの印章を預かり、これを代官に届け、これによって印鑑帳がつくられました。また、今日の戸籍台帳ともいえる「宗門人別改帳」も作成され、寺の住職が檀家であることを証明するために印章を捺しました。
太政官布告
明治6年に発せられた太政官布告には、実印が捺されていない公文書は裁判において認められないことが明記されており、法的にも実印の重要性が確立。これを受けて、広く実印や認印が普及していきました。このようにして律令時代から千年余の時を経て官印制度は復活したのてずか、当時の政府はこれと合わせて欧米のサインも併用していこうとしました。しかし、この試みは日本の社会に馴染まず、経ち切れになり印章を最重視する社会的慣習が完全に定着しました。ところで、印章は判とも称されますが、これは判決書に印章が捺されたためです。また、ハンコは「判行」から転じたものといわれています。世界的には数千年の歴史を刻む印章は、日本においても古代から継承されてきたものであり、そこには人間の英知が時を超えて深く息づいているのです。